三河守大江定基公墓碑・執権最明寺入道時頼公墓碑・駿河刺史水野公墓碑
三河守大江定基が愛妾力寿姫を失い、大宝山の山麓に草庵を結び六光寺とし力寿の冥福を祈ったのが西明寺のはじまりと伝わっている。その後、鎌倉の北条時頼が最明寺入道となって諸国行脚の際、当寺に足を留めたときに六光寺を最明寺と改め禅宗寺院になった。その後、永禄7年(1564年)徳川家康が八幡砦における今川氏との戦いの際本寺に立寄り、空腹をしのいだその恩顧を深く感じ、最の一字を西と改め西明寺なる。延徳元年(1489年)駿河の刺史水野氏がこの地を領した時、戦乱の時代で当寺院の衰微を歎き、尾張国知多郡より太素省淳和尚を招請して始祖として、曹洞宗寺院を開山し現在に至る。墓域の一郭に定基公・時頼公・水野公の墓碑が三開基として祀られている。